捨て身の献身はしなかったわらしべ長者

わらしべ長者の男が成功した理由についてあれこれ述べるのは、しょせんは結果論かもしれない。しかし、端々から成功のエッセンスを抜き出し、「これが重要なのでは?」という知見として得ることについては、結果論だろうと役に立たないわけではない。

自分がわらしべ長者を読んでいて感じたのは、「この男は、捨て身で相手を助けるわけではないんだな」という点だった。

つまり、相手のことを助けられそうであれば手持ちのモノを差し出すというだけで、明らかに損となる取引には応じていない、というかそういう取引を発生させてすらいない。

ちなみに、現代でわらしべ長者を実践している人は何人かいる。成功者と失敗者どちらもいて、違いはいくつかあるが、そのうちの一つに「自分を犠牲にしたかどうか」が含まれるのではないかと思う。

成功者は、無理筋の交渉は突っぱねるか、はじめから交渉のテーブルに参加しない。失敗者は、交換してほしいあまりに、自分にとって不利な条件で交渉を持ちかけ、相手からの不条理な条件を飲まざるを得なくなる。

ちなみに、童話では、馬を無理やりに取り換えられたという描写がある。宇治拾遺物語ではそういうヘマをしないが、たとえ強奪されたとしても、それは単なる不幸な事故であって、自分を犠牲にした結果ではない。

ニーズのないところで交渉をしない

物語では短縮されていたが、わらしべ長者も交換する相手を出先で見極めており、ぜんぜん困っていなさそうなその辺の人にはまったく声をかけていない。「喉が乾いていそうな身分の高い女」、「死んだ馬の前で途方に暮れている下人」、「どこかに行こうとして困っている人」に対し、ピンポイントで話しかけている。

馬を交換する前には、道すがらにあった人の家に泊めてもらっており、その家でのエピソードは何も無かったことから、馬をすぐには必要としていない人には話を持ち出さなかったのだろうと分かる。

持続可能なやり方を選ぶということ

自分を犠牲にしない物々交換が何を意味するかというと、「持続可能な手法」であるという点が大きい。つまり、自分がイヤイヤやる作業ではないうえに、交換してもらうものは、誰かが価値を見出しうるモノである。これさえ守れば、いくらでも物々交換でわらしべ長者が実現できる。

実際にわらしべ長者戦略をするときには、モノの転売か、スキルを増やして仕事を見つけるか、という2点が現実的な落としどころとなる。単にわらしべ長者の行動をなぞるだけでは、本人の心が折れるか無価値なものが手元に残るかで終わってしまうだろう。

自分を犠牲にしないというのは、自分自身の幸福を守るという意味でも、持続可能なビジネスをするという意味でも重要な要素なのだ。

ある人間が、聖人になるために、天使になる必要はない。

アルベルト・シュヴァイツァー