なんとなく貯めることをやめる

貯金というのは恐ろしいものだ。貯めていると安心してしまう。

もちろん、貯金がゼロでいいことはない。選択肢を増やすという意味で、多少の生活防衛資金を持っていたほうがいい。しかし、将来への保険をかけるために、何となく貯金をするのはもったいない。

ドストエフスキーは、『死の家の記録』で、「金は鋳造された自由である。」と言った。引用元の文脈で使うのならば、自由を奪われた人間にとって金は何十倍も尊いものに感じられ、持っているだけで心が満たされるということだ。金がなればどこまでも不自由だが、お金をせっせと貯め込んでも、看守にかっさらわれてしまうことがある。金貸しはどこにでも現れて、つかの間の自由を得る手段を(法外な金利で)貸してくれる。

これらを踏まえると、「今この瞬間の選択肢を増やしてくれる手段として金があるにすぎない」という捉え方もできる。であれば、その選択をほとんど先送りにして、過剰なほど自由を犠牲にする必要はないだろう。

カネやモノに執着しない

このサイトの主題である「わらしべ長者」にも触れておこう。

わらしべ長者の男も、モノやカネを貯め込むということをしなかった。生きるのに必須ではないものや今すぐに必要ではないものについては、どれもこれもすぐに手放してしまった。みかんも、布も、馬だってそうだ。これだけでも、人間離れした物欲の薄さである。当時の仏教的な価値観を考慮すれば、「執着(しゅうじゃく)」から解き放たれることが人生がよりよくなるという教訓なのだろう。

また、男が家を借りて住みはじめ、豊作になってからは、物がどんどん集まるようになったと記されている。

当時から、お金の不思議な性質は認められていたらしい。お金は、手持ちがないときにはすぐになくなってしまうのに、たくさん持っていると自動的に増えていく性質がある。金額が大きくなるほどお金を増やすのが容易になる。質素な生活を崩さなければ、お金が足りなくなるという心配事はなくなるし、お金を消費し尽くすことも難しくなる。この状態がわらしべ長者の男にも起こっているのだ。

一財産できると、自分の財産に固執して、どんどん増やしたいと願ってしまうのが人の性だ。だが、自分の財産を守ることに執着しすぎず、必要なときには手放してもいいと思えるような境地に達することで人生は楽しくなるし、新たなチャンスが目の前にやってきてくれるのかもしれない。

空っぽのポケットほど、人生を冒険的にするものはない。

ヴィクトル・ユーゴー